映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の感想になります。
ネタバレを含みますので、お読みになる際はご注意ください。
2019年公開の映画『ジョーカー』。
DCコミックの『バットマン』に登場するキャラクターの中でもとりわけ人気のヴィラン(敵役)、ジョーカーをベースにしたこの作品は、R指定作品としては歴代No.1の特大ヒットを記録。アカデミー賞11部門ノミネート、2部門受賞という、まさに社会現象というべき作品となりました。
ちなみに、R指定作品歴代No.1の記録は、先日『デッドプール&ウルヴァリン』が塗り替えました。すごい。
そんな『ジョーカー』の続編である超話題作、それが本作、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』です。
前作の“その後”が描かれる、スリラー作品となっています。
もくじ
概要
前作『ジョーカー』、および本作は、現在展開されているDCコミックのシェアード・ユニバースであるDCユニバース(DCU)とは、完全に切り離された作品になっています。どうやら、バットマンの若かりし頃を描いた『THE BATMAN -ザ・バットマン-』のシリーズなどと同様、こうしたユニバースとは無関係な作品群を、DCU内の“DC・エルスワールズ”と呼称して区別しているらしいです。うーん、ややこし。
DCEUがもっとヒットしてればこんなことにはならなかった…のかな。売れない作品はなかったことにし、売れた作品はあれこれ理由をつけて残すという、ワーナーの苦心ぶりが窺えますな。…いやまぁ、作品自体や製作陣を悪く言うつもりは全くないです。僕はDCEU作品をものすごく楽しんだクチですし、DCは大好きなキャラばかりなので、頑張ってほしいですホント。
監督は、トッド・フィリップス。
前作でも監督・脚本を務めているほか、二日酔いで目覚めたらよく覚えてないけどとんでもないことになってる、『ハングオーバー!』シリーズの監督としても知られています。
脚本も前作同様。トッド監督と、実在のプロボクサーを描いた伝記映画『ザ・ファイター』の脚本でも知られるスコット・シルヴァーが執筆しています。
主演ももちろん前作同様、ホアキン・フェニックス。
『her/世界でひとつの彼女』『ナポレオン』『ボーはおそれている』など、主演作品は数知れず。
もうひとりの主演と言うべき重要キャラを演じるのが、歌手のレディー・ガガ。
近年では、『アリー/スター誕生』や『ハウス・オブ・グッチ』など、俳優としても高い評価を獲得しています。
そのほか、『マルコヴィッチの穴』などのキャサリン・キーナー、『ハリー・ポッター』シリーズの“マッドアイ”・ムーディー役などでも知られるブレンダン・グリーソン、『デッドプール2』のドミノ役などで知られるザジー・ビーツ、といった俳優陣が出演しています。
予告編
あらすじ
2年前、この街に誕生した狂気の道化師、ジョーカー。
その男、アーサー・フレック(演:ホアキン・フェニックス)は、アーカム・アサイラムへと収監され、裁判の時を待っていました。
ある日、看守の計らいで合唱に参加することになったアーサーは、そこでセラピーを受けているハーレイ・“リー”・クインゼル(演:レディー・ガガ)と出会います。リーはアーサーに強い憧れを抱いており、自分を必要としてくれるリーに、アーサーも惹かれていきます。
そうして、いよいよ始まった裁判は、異例の生中継で執り行われることに。
街に溢れかえるジョーカーの信奉者たち、そしてそれらに怯えながら生きている市井の人々が、固唾を飲んで裁判の行方を見守ります。
悪のカリスマとなった男の、その結末は――。
というのがあらすじ。
感想
心にズッシリとくる映画でした。
なんだか本作は本国アメリカでは大爆死しているようで、日本でも「死ぬほど退屈!」「今年のワースト候補!」とか言ってる人がいるようですが、僕はそんなこと全く思えなかったです。
確かに、ほとんどが獄中か裁判所のシーンなのであまり変わり映えがしないですし、前作のジョーカーが完成した瞬間の爆発的カタルシスを感じられるようなシーンは、本作にはありませんでした。でも、アーサーという人間、そして「ジョーカー」とは何なのかを丁寧に描いていて、僕は退屈さは全く感じませんでした。なんだろう、僕が割と社会的に立場の弱い(実際どうなのかというより、そう自覚してる)人間だから、アーサーに凄く感情移入してしまったような、そんな気がします。
ミュージカルシーンも「長い」とか「要らない」とか言われているようですが、エンターテイナーを目指す男の心の内、そして決してそうはなれない現実の虚しさみたいなのが伝わってきて、僕はすごく見応えがあったと思いました。
タイトルの「フォリ・ア・ドゥ(Folie à deux)」は、フランス語で「二人狂い」という意味だそうで。日本では「共有精神病性障害」「誘導妄想性障害」とも呼ばれる精神障害を指し、ひとりの妄想が別の人間に伝染し、それがまた別の人間に…という風に、妄想が共有されていくのが特徴だそうです。人数が増えても呼び方としては「二人狂い」なんだとか。
本シリーズにおける「ジョーカー」は、もはやアーサー個人を指すものではなくなっています。アーサーにそのつもりはなくとも、「理不尽でクソッタレなこの社会をぶっ壊してくれる存在」、そのように市民の目には映っています。そんなジョーカーの姿は鬱屈した思いを抱えている市民らにどんどん伝播していき、さながら「概念」のようになってしまっています。ジョーカーを崇拝し思想を共にしようとする者、便乗してただ暴れたいだけの者が溢れかえり、街は狂乱の真っ只中。まさに「フォリ・ア・ドゥ」ですね。
冒頭で流れたアニメーション『俺と俺の影』は、そんなアーサーとジョーカーの関係性をコミカルに、そして残酷に描いていると感じました。本来、アーサーの分身ともいえるジョーカーは、どんどん大きく膨れ上がってアーサーの手を離れ、やがて自分自身を脅かし始める…。ただのコメディアニメーションと見せかけて、実はそれとは程遠い作品なんですよね。あれを見てゾッとしたの、僕だけではないはず。
レディー・ガガ演じるリーも、なかなか魅力的なキャラになっていると思いました。
歌唱力は流石のもので、ミュージカルシーンのために彼女を起用したのかと思うほど。もしくは、彼女のためにミュージカルシーンを増やしたのかも。知らんけど。
平然と嘘をついたり、精神状態がイマイチわかりづらかったりするところが、キャラクター自体を掴みづらいものにしていて、「彼女が本当に好きなのはアーサーなのか、ジョーカーなのか」を曖昧にしていて、絶妙だなと思いました。最後にそれはハッキリするわけですが、一気に興味を失くすその様はなんとも残酷で、アーサーからしたらたまったもんじゃないなと。アーサーにすっかり感情移入していた僕は、終盤のリーに「結局コイツもそうなのか…」という感情を抱いてしまい、ちょっと嫌いになりました。まぁ、それも監督の思惑通り、なのでしょうかね。
ラストシーンも、CMで「衝撃のラストを見逃すな」とか煽ってましたが、確かに衝撃的でした。
「ただの人間であるアーサーの最期、そして真のジョーカーの誕生」
と僕は解釈しましたが、どうでしょうか。最後の最後で高笑いするあの男が、もしかすると『ダークナイト』等へ繋がっていくのかも…などと想像するのも楽しいですね。
なんというか、映画全体を通して、ジョーカーという存在を否定しているような、そういう印象を受けました。前作公開後、現実でもゴッサムと同じようにジョーカーの賛同者や上っ面だけなぞって犯罪に走る人間が増えたそうで、本作は「いやいや、こういう風になっちゃいかんよ。この映画みたいになるよ」と言っているような、そんな気がしました。さらにあのラストからは、「下手に真似しちゃうと取り返しのつかないことになるよ」とも言っている気がします。
前作を見たときも、ラストのカタルシスに涙が止まらなかったものの、「(いい意味で)最悪の結末だな」と思ったので、その「最悪の結末」のその後が「さらに最悪な結末」だったことに、納得感を感じてしまったと言いますか。…伝わりますかね。
『マッドマックス:フュリオサ』も、現実でウォーボーイズみたいな思想の人が増えてしまったことを憂慮して、敢えてカタルシスを感じさせないような作りにした、みたいな話も聞きますし、本作もそれと同じような考えで作られたのかなと。
…んで、そうした似たような思想で作られた作品の僕の感想がそれぞれ、『フュリオサ』ではもっと爽快感くれよ!って感じで、本作ではこれがいいんだよ!って感じで、真逆なのがなんとも興味深い。キャラクターとか、作品自体に求めているものの違いなのかな。自分でもよくわかりません。同じ人間でもこれだけ感じ方が違うんだから、何がウケるかなんてわかるわけないですわな。
おわりに
以上になります。
本作が興行収入的にうまくいっていないのは事実です。しかし、だからといって「駄作!」とレッテルを貼って見ようともしないのは違うと思います。少なくとも、僕は本作を前作と同じくらい良い映画だと思っています。つまらないかどうかは、ぜひご自身の目で見て確かめて欲しいです。さぁ、今すぐ映画館へ行くのです…。
ということで、映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の感想でした。
ではまた。